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南アフリカ歴史パート③~アパルトヘイト時代


南アフリカの人々が長く苦しみ
現代でも世界中で根強く残る人種差別問題。
肌色や国籍による差別は決して他人事ではなく、
自分の身にも起こりえることであり、
思っている以上に身近なことです。
政策上は差別制度が撤廃されていても、
人々の慣習の中に根付いた差別を
すべて取り除くことはなかなか難しく、
とても長い年月を要します。
南アフリカの歴史パート③では、
人種差別制度「アパルトヘイト」について
書き綴りたいと思います。


「アパルトヘイト」とはアフリカーンス語で
「分離」や「隔離」を意味する言葉です。
南アフリカのアパルトヘイトの歴史を知れば、
人種差別により苦しんだ人々の
辛く長い闘いの歴史を
知ることが出来るでしょう。

南アフリカの人種差別の原点は、
1910年の南アフリカ連邦発足の頃からと
言われています。
日本では日露戦争(1904~1905年)が
終結した頃の事です。
南アフリカの土地で、
ヨーロッパからの移民が社会的優位な立場となり
政治的にも経済的にも実権を握るなかで、
南アフリカでの力を誇示する為に
白人による人種による隔離が始まりました。
1913年に、原住民土地法が制定され
人種の差別化の動きが強まります。
人口の大多数を占めていたにも関わらず
黒人の居住地域は奪われ、
南アフリカ全土の13%の辺境不毛な土地のみに
黒人の住居地は制限されてしまいます。

1948年に国の法律として
「アパルトヘイト」が発足された後は

白人が南アフリカで優位になるような法が
次々と確立されていきます。
・居住区の制限
・参政権のはく奪
・白人の所有する農園や工場での、
低賃金・劣悪環境のもとでの労働
・レストラン・ホテル、病院、バス停での
白人とそれ以外の区別
・異なる人種での結婚禁止
・身分証明書の携帯義務づけ、
白人居住区への黒人の出入りの管理
・不十分な教育

上記では黒人と書いていますが、
アパルトヘイトでは、「黒人」に加え、
「カラード」も差別の対象でした。
カラードにはアジア人が含まれ、
インド人や中国人も自由が奪われました。
当時の日本人の立場とは?と
疑問をもった方もいると思いますが、
日本人は「名誉白人」として権限を多く与えられ
白人に比較的近い自由を手にしていました。
当時の日本が南アフリカに与える
経済的影響が大きく、
南アフリカは日本と友好な関係を
保つことを大切と考えたことが理由です。


アパルトヘイト時代は1948年から1994年、
黒人およびカラードの人々は、
苦しい自由のない暮らしを強いられます。
人権を求めて生きているだけで罰せられ
多くの人が命を落としました。


1976年6月16日には
学生2万人が不十分な教育を求めて警察と衝突し
700人が亡くなりました。
現在、この日は人権について考える
南アフリカにとって重要な日であり
祝日として定められています。

アパルトヘイトが撤廃されたのは1994年です。
現在、35歳以上の南アフリカ人にとって、
アパルトヘイトで見て生き抜いた出来事は
まだまだ鮮明に記憶されていることでしょう。
アパルトヘイトの撤廃は
アパルトヘイトに反対し続けた
黒人やカラードの人々、
人間としての平等性を訴え続けた一部の白人、
南アフリカに向けられた世界からの厳しい声
そして、
今の時代も南アフリカの父として愛される
ネルソンマンデラの存在があります。



写真はネルソンマンデラや
人権を主張し逮捕された黒人が
送り込まれたロベン島にある収容所です。
ケープタウンの街から船に乗り
荒い海を通ってたどり着く場所にあるのですが
収容された人が逃げられない場所でした。
ネルソンマンデラは収監されていた27年中
18年をこちらの収容所で過ごしました。

現在は、観光でスポットとして立ち寄り
当時の様子を学ぶことができます。
実際に収容されていた人が案内をし
当時の話をしてくれます。
行く前の予習として
ネルソンマンデラについて書いてある本
「自由への長い道」をおすすめします。




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